2013年4月13日土曜日

養老先生の話を聞いてきた。

4月12日(金)


養老先生のお話し。

テーマは「生きる力」でした。

大きく二つのことについて、養老先生は話していたように思う。

まず一つ目は、私たちを取り巻く環境の話。
二つ目は、テーマである生きる力、私たち自身についての話。

 私たちを取り巻く環境。 エネルギーと経済のお話し。
エネルギーの消費が増えると経済成長率が増えるという事実がある。
エネルギーというのは、石油のこと。現代社会においては 経済成長を
目指すことが大きな流れであるから、必然的にエネルギーを必要とすることになる。

一方でエネルギーは私たちの身体にも存在している。基礎代謝と言って、
日々私たちはエネルギーを蓄えて消費している。 しかし、外部からの
エネルギーによって、自分の基礎代謝がどんどん落ちている。
外部からのエネルギーというのは、たとえばクルマによる移動。
どんどんエネルギーが内部からではなく、外部から得られることによって、
人間が動かなくなる。それで肥満が増えたり、病気が増えるという必然。
そういう社会に生きている事実を説明してくれた。

次に、生きるとは何だろうという話。

その逆の死ぬということから話は始まった。

死ぬと困るのは誰だろう。実は自分は死んでも困らない笑
死んだらそれまで。自分はもう関係ないわけだから、死んで困るのは、
自分の身近な人である。  ということは、生きると言うことも身近な人との
関係性のなかでしか、 あり得ないのではないのだろうか。という話。

一人ぼっちでいたとして、生きることはできても、じゃあ生きる力が
みなぎってくるだろうか。よく、奥さんを早くに亡くした男性が
後を追うようにして亡くなるケースがあるけども、これもやはり、
身近な奥さんがいなくなったことで、生きる力を失うのであろうことは、
想像すればイメージ出来る。

生きる力に満ちあふれた生き方とはどんなものだろうか。 身近な人との関係が、
強くある生活。すなわちいま流行の”絆”のある 社会であろう。  いまは人間関係が
希薄な社会と言われているわけだから、当然、 生きる力は弱くなっている
ということだった。

じゃあ問題は、なぜそんな希薄な人間関係の社会になっているのか。
個性、独創的、他のヒトにできないこと。こんなキーワードが社会に出て行く前の
学生達に求められる条件として、提示される。執拗に自分というものを、
意識して周りと区別する傾向。  しかし、養老先生はこんな例をあげた。
精神に障害をもった方を相手にする現場にかつていた先生は、まさに彼らこそが、
個性をもって独創的で他の人にできないことをしていると笑
しかし、彼らは社会に出て行けないから病院に通っているわけで、 つまり、
社会においては相手に役に立つからこそ自分のいる価値が出てくるということなので、
いたずらに個性や独創性をもてはやすのは おかしいというわけだ。
個性は生まれつきあるでしょう。顔や血液型。 それが個性だろうと。

さらにこう付け加える。  自分と周りの環境を区別することはできない。
それくらい、実は私たちは環境と繋がっている。  例えば目の前の田んぼの稲を見て、
私たちの未来を見る。 なぜなら、お米を食べて私たちは身体を作っている。
稲穂が成長してお米になるということは、自分の身体を作る基となる食べ物が、
できる、すなわちそれは自分自身でもあるということなのだ。

さらに、自分たちの細胞のことも例にあげた。 細胞は毎日少しずつ入れ替わっている。
赤ちゃんのころ私たちを形作っていた 細胞は、いまは一つも残っていないそうだ。
だから、いまの私たちは、 生まれた頃とは丸っきり別物になっている。
細胞は外にどんどん腐敗して、 剥がれ落ちているわけだから、それこそ環境との
境界線はつねに危うい。

自分=環境ということをこうやって丁寧に説明して、いかに社会と繋がるのかが
自分に関係しているかを説明してくれた。

そして最後にまとめ。  自分と環境の境界線がなくなって繋がる。
”つながる”ということがこれからの学問におけるテーマだと。
日本人のベースにある仏教は、そういう意味では”つながる”ことが
根底にあると言うことだった。だから、日本人の感覚がこれからは 大切になるとか。

この最後の10分で自分の集中がとぎれた、プラス養老先生が急いでまとめたので、
結論がよくわからなかった。しかし、ここまでわかっていれば、
きっと考えれば分かると思うので、まあよしとしよう!  ああ、長くてすいません。

おもしろかった!

がん!がん!がん!

2013年4月3日水曜日

中学生は身の程を知らないが、実際には知る必要があるのかどうか。

4月2日(火)

並行して更新している農場ブログのほうも
滞り気味なのに、こちらはもっと滞ってしまった。

農作業が春になって忙しくなり、目の前のことで精一杯。

この一ヶ月で、受験は終わり、所属していた塾も閉校した。

懸念されていた生徒も、無事合格して、
少し肩の荷が下りたようでもあります。

受験が終わって一段落したら、塾の閉校ということで、
バタバタとお別れのご挨拶。

そして3月をもって塾の仕事も一旦お休みということになった。

いま、思い返してみても、塾での中学生との対話は、
とっても気づきの多い仕事だったように思う。

勉強を教えるという定められたミッションではあるけども、
非常に不安定要素の多い中学生相手にすると、かなり高度な仕事になる。

コミュニケーションをとるでも、大人と違って一筋縄にはいかない。
ときには、先方が興味関心のあるトピックを少し下調べしてみたり、
機嫌の悪そうなときは、テンションが上がるように、話をもっていったり、
さながら付き人、アシスタント、マネージャーのような資質が
必要とされるのではないか?と感じた。

一人相手でもこんなわけなので、それが人数が増えればより難しい。

こんな刺激的な仕事内容もさることながら、まだまだ未来には
大きな大きな可能性を秘めている中学生の考えていることに、
触れることは、さらにしびれる体験だった。

身の程を知る。

これが、大人になる上でどうしても通らなくてはならない壁。

中学生は、身の程を知らない。
まったく勉強をしないくせに、末は防衛大学を目指すと言い放つ。

ああ、もうこんな向こう見ずな目標も立てられないのかと、
自分を振り返るのだけども、、、まだまだ!

中学生のことを、僕が、まだまだ知らないんだなと感じるように、

世間から見れば、僕もまだまだ何も知らない人間である。

いまの自分には想像もできないような、大きな目標を掲げることもできるのだ。
そういう勇気をもらえる。

中学生は、お金も知識もないが、膨大な時間がある。
僕には、お金はないが多少の知識と経験、それに中学生には負けるが、
まだまだ時間はある。

がん!がん!がん!